ドイツやフランスでの問題



ドイツやフランスではマスク着用や行動制限を要求する各国の政府に対し抗議運動が盛んになっています。

個人の自由を侵害する人権問題だという主張です。

法制度、特に人権問題は憲法の定めがどうなっているかにより国によって人権の保障範囲や程度が異なります。

ただし国によって異なりにくい権利だから人権だという言い方もできるのです。

確かに個人には一定の行動の自由が認められています。

このような個人の自由に任せていては害悪が発生する危険性が高い場合に、国側が人権を制約することが正当化されることもあります。

日本で問題になったら



今問題にしているのはドイツやフランスの場合ですが、これを日本の人権問題と同様の問題として検討してみたいと思います。

個人にはマスクをしない自由や移動の自由を含めた行動の自由が認められています。

それって人権?



まず、マスクをしない自由が憲法上認められるかについては検討の余地があります。

保障根拠としては憲法第13条(幸福追求権)が挙げられます。

憲法第13条は具体的な根拠規定がない場合の保障根拠として用いられることが多い規定です。

そのため少し詳しく解説いたします。

まず憲法に直接規定がない自由について広く憲法第13条を根拠規定として用いてしまうと人権のインフレ化が起きると言われています。

本来重要な権利自由であるにもかかわらず内容がよくわからないものを人権として捉えるとかえって人権の価値を相対化してしまい人権の価値を押し下げてしまうという考えです。

そのため憲法上直接規定のない自由を憲法第13条を根拠に保護することができるとすれば、それは他の自由一般から区別され個人の人格的生存に不可欠な場合に限定されると解されています。


マスクをしない自由が憲法第13条に含まれるかどうかについては両方の可能性があると思います。

マスクをしない自由まで人権とするとほとんどの行動の自由が人権ということになってしまうため人権ではないという考え方も成り立ち得ると思います。

人権でないとなると憲法問題にはならず違法性の問題だけが残ります。

これに対しマスクをすることで個人の顔を認知して貰う機会が奪われると考えれば、直接アイデンティティーの問題に関わるためマスクをしないことも人格的生存にかかわる自由だという考えも成り立ちえます。

次に移動の自由については憲法第22条(居住移転の自由)の一環として保障されると考えて良いでしょう。

人権として保障されているとなると次は制約が許されるかという話になります。

違憲かどうかの判断基準

人権の保障根拠がわかったら対は国側の制約が認められるかを違憲審査基準を基に判断します。

ただし違憲審査基準が憲法や法律で規定されているわけではないので審査の違憲(合憲)を確認する判断枠組みなどと呼ばれることがあります。

違憲審査制度は定められているけれども具体的な方法までは規定がないため裁判官の判断に任されることになります。

この裁判官の判断が恣意的になっては困るため予め人権の重要性や権力分立の構造から判断基準を客観的に決めておき、決めた基準に基づいて判断するという考え方です。

違憲審査基準としては個人の人格的生存に関わるとして厳しい基準で判断される可能性もありますし、今回のコロナのような緊急の感染症対策として行政の専門的判断を優先し比較的緩やかな基準で判断される可能性もあります。

いずれにしても人権の制約が正当化できるか人権の重要性や制約しない場合の弊害なども含めて慎重に検討されます。

以上が人権侵害になるかどうかの判断の流れですが、日本国憲法の場合、具体的事件を離れて憲法違反のみを争うことができません。

具体的事件での争いを離れて国の政策や立法が憲法問題ではないかという争い方が無いのです。

これを付随的違憲審査制といいます。

日本の違憲審査制度は付随的違憲審査制を採用しています。

ドイツの場合なら

これに対しドイツのように憲法裁判所がある国では具体的事件を離れて憲法問題だけを訴訟で争うことができます。

これを抽象的違憲審査制といいます。

人権が世界共通の性質を持つとしても法制度により救済のされ方が異なることがあるのだということをご承知ください。

自由に考えられていますか

このような法制度の違いを踏まえた上でも今回のコロナ感染者の拡大防止対策のような非常事態の場合、個人の権利自由よりも感染拡大防止という公共の利益を優先させなければならない場合もあります。

これを余計なお世話だとして自由を叫ぶ市民を見ると親や先生に抵抗する子供を見るような気持ちになってしまいます。

自分の健康のことは自分で考えなければなりませんが自由に判断した結果、自己加害になる可能性があるからです。

自分で判断することが難しい子供については成人と異なりパターナリスティック(父権的)な制約が認められることがあります。

本人の自由に任せておくとかえって本人のためにならないので親心的な保護を与えるという発想です。

子供扱いされないためには科学的な見地からの判断が重要ということになります。