最近、朝日新聞デジタルで詩人の谷川俊太郎さんの特集が組まれているので、谷川さんの名前を目にする機会が増えています。
以前から気になっている人の一人です。
私が子供の頃から、すでに詩人だったので、詩を書くことを職業としている人と認識しています。
戦後ずっと詩人として生きてきた人です。
終戦後は、余程のお金持ちでなければ、みんな食えない時代です。
その時代に詩人として生きようと考えたことが、すでに普通の人ではない感じがします。
仕事がうまくいかなくても、食いっぱぐれがないようにと、飲食業を選んだ人を安易と笑うことができない時代です。
なぜ詩人として生きようと思ったのかというより、詩人として生きていけるのかどうか、食べるということをどう考えていたのかに興味があります。
ご本人曰く、原稿料を稼がなくてはならないから、売れたいという気持ちはあったそうです。
それで詩人を続けていたというのは、増々わからない感じがします。
詩というと、観念的でわかったような、わからないような言葉の集まりという感がぬぐえません。
それでも伝えようとしたり表現しようと思うものが散文と同じようにあるはずです。
ただ、一義的に構造や意味を読解するというのも違う気がします。
そんなことを考えていたら谷川さんの次の言葉に出会いました。
「詩は本音だけだとつまらなくなる」
もしも、自分の疑問をぶつけたら、言葉の錬金術師がニヤリと笑う気がします。
散文がうまければいいけど、散文に自信がないから、ちょっと詩でごまかすところがあるのだそうです。
この言葉、本音と取るのか、詩的な表現として取るのかも難しくなってきます。
意味より無意味の方がえらいとも表現されています。
確かに、あまり意味があると思えない、言葉の響き中心の詩が頭に浮かびます。
そして、無意味な言葉で紡ぎだす詩人には、無意味だからこそAIに脅かされる感覚はないのだそうです。
それなら、創作意欲は旺盛なのかと思いきや、惰性で書いていると。
更に、言葉に揉まれながら暮らしてきたから、どちらかというと無言を好むのだそうです。
もはや、言葉の錬金術師というより、プライベートの芸人さんのようです。
ガルシア・マルケスが1967年に小説「百年の孤独」を出版しましたが、それよりもずっと前の1952年、谷川兄さん、いや谷川師匠は、詩集「二十億光年の孤独」でデビューしています。
年季が違うということでしょうか。