福島の原発事故で業務上過失死傷罪で起訴された東京電力の旧経営陣についての判決がありました。
判決では3被告人とも無罪ということになりました。
判決では事故を回避するためには運転停止措置を講じる他なかったとして無罪としています。
この裁判では過失の有無について津波によって原発に事故が起きることについての予測可能性や結果回避可能性を問題にしています。
ここで過失論について振り返ってみましょう。
戦後間もない時代にまでさかのぼります。
学説上は旧過失論と呼ばれる考え方があります。
結果予見義務や結果予見可能性を重視する考え方です。
このような考え方だと自動車が普及してきた時代に自動車の運転が危険だという認識があれば過失があったということになりかねないという問題がありました。
そこで結果回避義務や結果回避可能性を重視する新過失論という考え方が登場しました。
自動車の運転が危険だとわかっていただけではなく実際の事故のときに結果を回避できる可能性があったかどうかを問題にする立場です。
この考え方だと自動車を運転していて事故が起こってもやむを得ない事情がある場合などは結果回避可能性がなかったとして過失がなかったと認定される可能性も出てきます。
過失をある程度限定する考え方です。
ところが1960年代から1970年代にかけて公害問題が生じると過失の認定を限定的に解してしまうと企業側の言い逃れを許すことになる可能性が出てきました。
そこで危険の発生についての危惧感を解消する措置を取らなかったことを過失とする危惧感説という新・新過失論という考え方が有力になりました。
法律学を自然科学のように捉えると真実に迫る考え方は一つしかないように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが法律学では社会の変化により考え方が変わるとうことはありうることなのです。
法律学が自然科学ではなく社会科学たる所以です。
今回の裁判も公害問題と同じような原発事故についての危惧感という問題設定をすれば有罪になった可能性は十分あります。
そうではなく津波による原発事故という結果の結果予見可能性や結果回避可能性を問題とする自動車事故と同じような問題設定の仕方をすると今回のような判決になってきます。
裁判では「予測に限界のある津波という自然現象について、想定できるあらゆる可能性を考慮し、必要な措置を講じることが義務づけられれば、原発の運転はおよそ不可能になる」ということが指摘されています。
このようなことから考えるとはじめに原発の運転ありきの判決であったと言えるのではないでしょうか。