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過失論その2(民事法を中心に)

過失をテーマにした記事の2回目です。

1回目で刑事法の説明をしたことには訳があります。

刑事法と民事法の分野で共通するということもありますが、異なる部分があることも理由の1つです。

過失に限らず、法律では同じ法律の中の全く同じ言葉でも、異なる意味に解さなければならない場合があります。

これを概念の相対性といいます。

難しい説明が続いて恐縮ですが、今回の記事を理解するために少し用語の確認をしておきます。

法律の世界でいう主観とは心理状態をいうため、主観を考える場合、その心理状態にある特定の個人を基準に考えます。

これに対し客観とは行為などの事実をいい、基準は一般人が基準になります。

具体例を挙げると、違法性は行為に関するものなので客観的なものであり、違法性を判断するには、たとえ特定の人の行為でも一般人を基準に判断するということになります。

過失の話に戻ります。

刑事法と共通するのですが、過失の内容(中身)は、古い考え方では、主観的な心理状態で、不注意にも意識の緊張を欠いた状態と考えられていました。

これが前回の記事でも触れた過失の客観化により、過失は主観的な要件ではなく、違法性を認定するための客観的な要件として、結果の発生を防ぐために必要とされる行動を取らなかったことという行為の態様として考えられるようになったのです。

理由は過失を主観的な要件と捉えてしまうと個人の心理状態の問題になるので、迂闊な人ほど過失が認められにくいという不都合な結果になってしまうからです。

これを主観的なものではなく、違法性を認定するための客観的な要件と考えれば一般人を基準とした行為規範(どのように行動すべきだったか)の問題と捉えることが可能になります。

そして具体的状況下で、結果を回避する行動を取る義務があったかどうかが検討され、その際、結果を回避するためにどのような行動を取るべきだったかということが過失の具体的な内容として明らかにされることになります。

このように民事法の分野では違法性を認定する要素として過失を捉えることになります。

刑法では過失を責任要素として、違法性ではなく責任段階で検討する考え方があるので混乱しやすいところです。

更に、過失を違法性(客観)の問題と捉えると、行政法の分野では、今度はこの違法性の意味が、過失を要件としない取消訴訟の違法性と過失を要件とする国家賠償請求訴訟とで同じなのかどうなのかという問題が生じます。

考え方によっては、同じ法律なのに違法性という言葉の意味を異なる意味として捉えます。(違法性の相対性の現れ)

取消訴訟と国家賠償請求訴訟で違法性を同じような意味に捉える考え方もあります。

さらに厄介なのは、国家賠償法は条文数が少なく、規定がないものについては民法の規定が適用されます。

このように過失は刑法、行政法、民法と複数の法律に跨がり、それぞれに共通する部分と異なる部分が生じうるので、全体をどのように理解するかということも重要になります。

ただ今回のように原発事故の損害賠償請求という具体的な事件の裁判になると、事件を妥当な結論に導くために必要な法律構成を取るということも必要になります。

そのため、今回の裁判では、全体的な理解や原則的な考えを離れてでも、被害者を救済する解釈論を探るべきではないかと思うのです。

原発の近くに住んでいた住民の受けた被害を考えると、今回の事故は東京電力だけの責任であるとは思えないのです。

電力については、エネルギー政策として政府の意向も色濃く反映されています。

国の原子力発電への関わり方が、東京電力が利益追求のために原子力発電を行いたいと申請して、国がそれをただ許可しただけの関係とは考えにくいのです。

官民一体となって進めている電力事業であるとすれば、原発事故が起きて損害が発生したのであれば、国にも責任の一端はあるのではないかと思えてならないのです。

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