沖縄を巡る情勢に変化が見られています。
地域によって沖縄の人にも変化に対する感じ方が異なるかも知れません。
中国と台湾との関係や、中国による日本の領海や領空に対する侵入により、軍事的な衝突の可能性が現実味を帯びています。
北朝鮮がミサイルを発射した際は、Jアラートが発令されるなど、中国だけを警戒していれば良いという状況でもありません。
軍事的な緊張ということでは元々米軍基地もあり、未だに、先の戦争での不発弾処理のために通行止めが行われることもあるため、特に緊張が高まっていると感じない人もいると思います。
日本国内では、アメリカ軍の基地の移設をめぐり、沖縄県と国との間で訴訟になっています。
実際には動かないですが、国内から軍事的緊張の高い国境線の方へ押し出されて行っているようにも見えます。
沖縄県は、元々、琉球王朝の時代には、中国と日本の両方に朝貢し、平和的な環境を維持するという両貢を行っていました。
福建省とは、その時代から交流の歴史があります。
そのため、中国の中には、沖縄を中国の一部のように感じている人もいるようです。
沖縄の中にも、古くは、中国名と沖縄の名前の両方を持つ人がいました。
そんな事もあってか、つい明治の頃ぐらいまでは、沖縄は日本なのかという議論が実際にありました。
文化も異なれば、言葉も今よりもっと通じにくかったからです。
言語という観点からすれば、沖縄の言葉は、中国語ではなく日本語に属します。
今では当たり前と思うかも知れませんが、元々はほとんど通じなかったので、真剣に研究されていたこともあるぐらいです。
言語系統の特徴の1つに、数の数え方があるそうです。
中国と日本の交流もあるため、数の数え方に、なんとなく中国語と日本語で似た部分もありますが、沖縄の数の数え方は、中国語よりも日本語に近いため、言語的には日本に属すると言って良いのです。
ただ歴史的には、中国に限らず、他のアジアの国とも交流を活発に行なっていたため、昔の沖縄の人にどちらかの国の国民という意識はなかったのかも知れません。
中国は、台湾を小琉球と呼び、沖縄を大琉球と呼んでいました。
琉球王朝下では、有力士族同士の争いが絶えなかったため、軍事的な争いをしないように武器を首里城の倉庫に集め、軍事的な衝突を避けていたそうです。
そのような状況下で、島津氏が侵攻してきたため、すんなり降伏してしまったようです。
激しい戦闘にならなかったことを薩摩藩の慈悲のように語る人がいますが、片面的な見方と言って良いと思います。
薩摩藩が琉球王国を併合したとき、当時の中国人は、日本人は何て野蛮なことをするんだと言ったそうです。
江戸城の無血開城とは事情が異なるのです。
それでは、日本側との関係はあまり無いかといえば、源為朝伝説が残っていたりするので、日本本土とも古くから交流があったという1つの証拠と言えるかもしれません。
今では日本であることに疑問を持つ人は殆どいませんが、軍事的な緊張が高まる中、中国の沖縄への進出の警戒は、台湾情勢を抜きに考えても、怠れない状態になっています。