安倍元首相を銃撃した罪で、起訴されていた被告人山上の裁判が、結審しました。
検察側の論告求刑が行われ、弁護側の最終弁論が行われました。
検察は、無期懲役を求刑しました。
検察側は、被告人山上の不遇な生い立ちは、量刑の大枠を変えるものではないとしています。
刑事実務の厳格な取り扱いといってよいと思います。
量刑は、情状事実を考慮しますが、今回重視されているのは、計画性や動機といった犯罪事実に関する情状です。
被告人の生い立ちなども、考慮できないわけではありませんが、直接犯罪事実を構成するものではないため、一般情状と評価されているのだと思います。
量刑にあたっては、一般情状よりも、犯罪事実に関する情状の方が重視されます。
刑事訴訟法の運用だけ考えても、今回のような求刑になっても不思議ではありません。
刑事法の分野では、犯罪事実が重視され、それ以外の事情やその中でも、特に主観的要素は排除される傾向にあります。
判断の客観化を図るという観点からは、恣意的な判断につながらないようにしなければなりませんし、主観的要素は裁判手続きの中で確認することが難しいからです。
そうは言っても、食うに困ってパンを盗む人間と、盗むこと自体にスリルを感じる人間や、盗むことを悪いことだと思わない人間が同じとは思えません。
刑事処分では、同じになっても仕方がないという考え方もありますが、求刑や処断刑で違いが出てもよいのではないかと思います。
ただ、今回の事件では、被告人山上が、宗教活動の被害者だとしても、それが事件の被害者である安倍元首相と関係があるということを、どれだけ考慮すべきなのかという問題もあります。
実際には、無関係ではないわけですが、関係を立証しにくいうえ、安倍元首相が教団の宗教活動をコントロールしえたのかという問題もあります。
一部の政治家は、集票や献金目当てで、宗教団体とかかわりを持ちますが、それが直ちに違法になるわけではなりません。
ただ事件後、教団と政治家の問題が取り沙汰された時、思った以上に、教団が政治家に食い込んでいたことが明らかになっています。
刑事手続きで救われてもおかしくない事情があるのに、刑事手続きで救われない現実を目のあたりにすると、被告人山上も、また被害者なのだと思わざるを得ません。
結局、誰も得をしないどころか、負の連鎖としか言いようがありません。
教団に対しては、文部科学省が、既に解散命令の手続きに入っていますが、仮に解散されたとしても、信者の宗教活動ができなくなるわけではありません。
信者に対しては、少なくとも宗教活動のあり方を考え直してもらいたいと思います。

