平城京から遷都して都とされた京都府の長岡京跡で、古墳2基の痕跡が見つかりました。

もちろん、長岡京は奈良時代のものですから、古墳はこの時代のものではありません。

もともと古墳があった所に、長岡京が築かれたようなのです。

古墳は、5世紀頃の円墳とみられていて、長岡京を造るために壊されたのではないかとみられています。

古墳については、有力豪族や天皇家の墓であるといわれていますが、お墓の意味だけなら、壊すというのは埋葬されている人に対する不敬以外の何物でもありません。

ただ、古墳については、権力者が、力を示すために、民を働かせて造ったというだけでなく、公共事業のようなものであったのではないかという説があります。

つまり、古墳を造るために、人々は駆り出されますが、食料などの報酬も得られていたのではないかと推測されるのです。

単にお墓の意味だけでなく、周辺を開発する公共事業だったとすると、人々が住んでいる場所の外にお墓を造るのではなく、人々が住んでいる場所の中、もしくは近くである必要があります。

古墳が増えてしまい壊さざるを得なくなったという可能性もありますが、公共の開発事業として造られたとすると、次に都を造る際、邪魔ならば壊すということもありえるわけです。

ひょっとすると、古墳は過去に有力者で栄えた場所の目印でもあり、それが当時も残っていたとすれば、自然災害にも強い場所ということでもあるため、都の建設地として好まれたのかもしれません。

個人的には、古墳が公共事業的な性質を持っていたという説には説得力があるように感じます。

仕事を提供するという意味と、住む場所や農地や水田を開発するという意味で、今でいう公共投資的な事業として民の生活の糧にもなっていたのではないかと考えられるからです。

この説では開発時に出た土が、そのまま古墳の築造に使われたと考えるわけです。

古墳には埋葬された人の権威を示すという意味はあると思いますが、今よりも記録媒体が少なく、時が経てば、その権威も徐々に忘れ去られていきます。

少しでも長く伝えるための古墳とも言えますが、その時代のために必要なら壊されるということもあったのではないかと思います。

昔のことですから、時が経ち、何かわからなくなったという可能性もあります。

古墳自体が今とは異なる見方をされていた可能性だってあります。

例えば、自然災害時の避難場所として機能していた可能性も否定できません。

いずれにしても、意図的にせよ、意図せざるにせよ、古墳が壊されることはあったわけです。

そのためか、長岡京跡のある京都ではありませんが、平城京のあった奈良県にも、過去の時代の新たな開発のために壊された古墳群が、今でも地下に眠っています。