あいちトリエンナーレ2019で「表現の不自由・その後」というイベントで平和の少女像が展示され議論を呼んでいます。

今日はこの問題について解説してみたいと思います。

結果的に展示の中止がなされたわけですがあいちトリエンナーレが文化庁の補助事業であることや中止のきっかけが名古屋市の河村市長が愛知県知事の大村知事に展示の中止や像の撤去を求めたことにもあるため議論を呼んでいるのです。

河村たかし市長は「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」と発言しています。

これに対し大村知事は「公権力を行使される方が、”この内容は良い、悪い”と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。」と発言しています。

ここで検閲の定義を確認しましょう。

検閲の定義については諸説ありますが検閲に関する判例として有名な北方ジャーナル事件によれば

検閲とは

1行政権が主体となって

2思想内容等の表現物を対象とし

3その全部又は一部の発表の禁止を目的として

4対象とされる表現物につき網羅的一般的に

5発表前にその内容を審査したうえ

6不適当と認めるものの発表を禁止すること

を言います。

今回の事案に当てはめて考えてみましょう。

1名古屋市や愛知県が主体となれば該当します

2平和の少女像は思想内容等の表現物にあたります

3少女像の撤去を求めているので該当します

4少々判断が難しいですが特定の作者だけを対象としていないことや作品一つにせよはじめの一つということもできるので該当性は否定できません

5発表後なので該当しません

6河村市長は不適当であるとして撤去や中止を求めていますが直接撤去や中止はしていないので該当しないことになりますが事実上影響がある発言をしていることが問題になります

以上のように検討してみると今回は事前に発表を禁止していないので検閲には当たらないということになりそうです。

そのうえで事後の禁止も表現の自由に対する影響が大きいことから違憲の可能性が高いという考え方もあるかと思います。

その際問題となるのは今回は行政が絡んでいますが主催者側が任意に展示を中止しているので1や6の部分が欠けることになりこの場合も検閲には該当しないことになりますが河村市長が大村知事に像の撤去や展示の中止を求めたことです。

この行為自体が行政処分にあたる可能性は低いので河村市長が行政法上の責任を追及される可能性は低いです。

ただし表現の自由が選挙を通じて政治に与える影響が大きい民主制の過程にとって重要な自由であるということを考慮しより厳しい目で見ると不適切な行為であったと見る余地はあると思います。

仮にこのような発言を規制しようとすると今度は河村市長側の表現の自由を制約することなることを指摘しておきます。

このように憲法問題は人権と人権の対立、自由と自由の対立の調整の問題という視点を含んでいます。

以上表現の不自由展の問題について解説してみました。