前回予告したとおり、福島第一原発の事故について国家賠償請求がなされた裁判について書きます。

前回までで国家賠償法第2条で公営物の設置または管理から生じた損害については国家賠償請求の余地があるものの、福島の原発事故では原発施設が東京電力のものであるため、形式的には公営物にあたらず、第2条による国家賠償請求という筋が無いということを書きました。

そこで、国家賠償法第1条により、公務員の故意または過失に基づく違法な行為により損害を受けたとして国家賠償を請求する方法を検討することになります。

事故の発生原因は原発ですので、東京電力に過失が認められる可能性はあっても、国家(公務員)の行為自体は観念出来ないのではないかという疑問がわきますが、この点については東京電力に対する規制権限を適切に行使しなかった不作為を争う余地があるということを書きました。

事故は自然災害がきっかけで、故意は考えにくいので過失を検討することになります。

そこで今回のテーマは過失になります。

過失については複数の考え方があります。

今回問題にしている判決では、地震発生時に国が公表していたデータによる想定の範囲を超える津波が起きたので、たとえ対策を講じていたとしても結果回避可能性がないとして国家賠償請求が棄却されたわけです。

そのため、過失の内容自体の検討はなされていないため、過失全体の説明は別の機会に譲り、この記事では、なぜ自動車事故などとは異なる考え方をするべきではないかと書いたのかを明らかにしたいと思います。

話が少し抽象的な話になってしまいますが、お付き合いください。

まず確認しておきたいのは、今回問題にしている判決が解釈論として変わった考え方をとっているので批判しているのではないということです。

今回の判決は自動車事故等であれば非常にオーソドックスな考え方をとっています。

今回の判決の過失に対する考え方の背景には、近代自由主義に基づいて個人の自由意思を想定し、自由な意思に基づいてある行動を取った結果、他人に損害を与えたのであれば、責任を負わなければならないという過失責任の原則があります。

故意や過失がなければ責任を問われないので行動の自由が保障される考え方でもあります。

原子力発電であっても自由に発電や電力事業を行える余地がなければなりませんが、原子力発電は施設の危険性から一定の制約が伴います。

それだけではなく、災害時以外の平常時でも放射性物質が発生するなど危険性の高い発電方法でもあります。

このように危険な施設を使って事業運営をする場合、単に自由の一環と捉えるよりは、そのような危険な施設から損害が発生した場合は責任を負わせるべきだという危険責任という考え方もあります。

危険責任は無過失責任の一種ですので、損害賠償を認める根拠にも過失責任から無過失責任まで幅広い考え方があるのです。

国家賠償法の場合、第1条で公務員の故意または過失が要求されているとしても、危険責任に近い過失の認定をするという解釈論も十分に成り立ちうるのです。

原発事故は自由を積極的に保障しなければならない局面というよりは、被害者救済の必要性の方が高い局面ではないかと感じたため、自動車事故とは異なる考え方をするべきではないかという問題提起をした次第です。

次回も、過失以外の問題点も含め、福島の原発事故の国家賠償請求の裁判について書いてみたいと思います。